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2006年の記録 | |
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11月4日(土)晴れ | |
今日は、長男がつきあってくれるというので、前々から登りたかった奥美濃の蠅帽子嶺(1037.3m)と蠅帽子峠に登った。この山は幕末に水戸藩の天狗党が登った歴史の道であり、また登山口と峠にお地蔵様があり、是非会いたかったからである。 | |
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根尾能郷の黒津口を過ぎたところでゲートが閉じられ通行止め。やむなく樽見駅までもどり、上大須から折越峠を越えて、黒津へ迂回する。峠では車が2台停まっていた。大白木山だろう。 黒津でヘアピンカーブ気味に国道157号に合流。こちら側のゲートも閉じられていて通行止めであった。12月22日or23日?までとあった。 ここから温見峠方面へは通行可であった。 しばらくして、左にMIZUNOの看板。ここを右折した所で駐車。身支度して出発。10:10 |
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最初は、根尾西谷川を渡渉しなければならない。川向こうに目印があり、乳授かりの地蔵尊があるが、深くて渡れそうにない。しかし、帰りにはこの地蔵尊を見たくてここに下ってきた。 この地蔵の名称であるが、ほゝずり地蔵との記録もあったが、登山口に別の地蔵尊があり二体あるのかもしれない。 ※西山秀夫著「名古屋からの山旅」P146には、二体あるようなそうでないような曖昧な記述。 ※中日新聞本社発行「山旅徹底ガイド」のP191の写真だと別物に見えるので二体あるのかも。 ※美濃一人さんの記述だとやはり二体あるように思える。 2013年5月27日、確認しましたが、やはり二体あり、別物でした。 少し下流にも渡れそうに見える所があるが、上流へ渡渉地点を探しながら50mほど行ってみると、浅瀬があり、向こう岸もなんとか上れそうな崖がある。ここでズックに履き替え川に入って渡る。対岸は4mほどの土の崖で雑草や木につかまって這い上がり、登山靴に履き替え、急登の藪を20分ほど上がって尾根末端からの登山道に合流する。10:40 ここにズックをデポした。 帰りはこの下流の渡れそうだった所を渡って車に戻った。(下の写真を参照) |
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908mピークまでは急登でジグザグに上がる。ピークは左へトラバースしている。ここからはなだらかで紅葉した気持ちのいい登山道である。 途中で中年のご夫婦が下山されてきた。蠅帽子峠のお地蔵さんはすぐ見つけられるとのことであった。 943mピークは、右から巻いていく。 右に蠅帽子嶺が見えてきた。 |
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右写真のようなトラバース道が多数あり要注意である。一ヶ所ロープが張ってあった。ありがたい。 | |
次第に紅葉がきれいになっていく。 イワウチワやシャクナゲが見られるようになってきた。 |
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左へカーブするところに、蠅帽子嶺と蠅帽子峠との分岐点があった。 右(赤)へ行くと蠅帽子嶺へ行く。私たちは右折してまず、蠅帽子嶺へ行くことにした。 水色は、蠅帽子峠から下山してきた道である。 右折すると柔らかい土の急登である。這いつくばって登ると次第にブッシュになる。やや左に方向を変えながら登ると県境尾根に出る。境界を示す苔むした石の標柱があった。 ここから東(右)は蠅帽子嶺、西(左)は蠅帽子峠である。 |
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県境尾根から右折して下り気味に尾根より2mほど北側の下を平行に藪道を歩いてくると蠅帽子嶺山頂に着く。三等三角点があった。13:14 西と南は切り開かれていて高屋山、能郷白山が臨めた。 きのこ汁とおにぎりで大休止。めまい止めの薬を飲んだ。 13:38出発 先ほどの尾根上の分岐点まで戻った。 |
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その後、県境尾根を西へ行き、蠅帽子峠に向かう。尾根は右へ大きくカーブしている。途中、峠へは左折して急坂を下るのであるが、下降点が見つからず右写真の大木の辺りまで来てしまった。 この後踏み跡がなくなり下りである。右斜め後ろを見ると蠅帽子嶺が右に見える。カーブしすぎて北へ来すぎてしまったようだ。 下降点を探しながら戻ると、古い目印があったのでここから下降する。 |
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薄い踏み跡を下ってくると峠表示のあるところに出た。14:14 福井県側を見ると薄い踏み跡が続いていた。 10分間の小休止。 |
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峠表示から4mほど岐阜県側にお地蔵様があった。 きれいに整備されていた。お賽銭をあげ、妻の体の回復を祈った。14:24発 山頂と峠への分岐点までは意外と時間がかかった。14:44 山頂と峠の両方に行くのであれば、私たちのように県境尾根を歩いた方が分岐点に戻るより短距離だと思った。 ただし、踏み跡が薄く、峠への下降点がポイントである。 |
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どんどん下ってくると川の音が聞こえてくる。 行きにデポしておいたズックを持ち、さらに下ってくると、白いタフロープがたくさんぶら下がっているところに出る。 ← ここは三方向に赤テープがあり、真ん中の道を行くことにする。一番右の右折する道は、しばらくして不明瞭になった。今はあまり使われていないようだ。一番左は真ん中に合流するかも…。 |
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尾根芯で、下ってくると尾根末端の登山口にある乳授かりの地蔵尊の上に出た。 ここでもお賽銭をあげ、妻の体の回復を祈った。 この石垣の右上に、登山口はこことここから80mほど上流にもあると書かれていた。 行きには気がつかずに50mほど進んでしまったのだが、……。 おそらく上の写真の一番右の道に出るものと思われる。 |
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地蔵尊(上の写真の赤円)から直進した渡渉点は深いので、いったんコワタビ谷の沢を渡ってから根尾西谷川の浅いところを渡って車に戻った。16:33 暗くなる前に戻れた。 |
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久しぶりにたくさん歩いた。先週の木曜日まで続いためまいは、幸い今日はなかった。 ところが翌朝になって、すごいめまいがおそってきた。 |
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水戸天狗党 水戸天狗党の悲劇 | |
数年前、私がまだ美濃の山を少しずつ登り始めた頃、妻と福井県の敦賀市に遊びに行った際、偶然見つけたのが右写真の敦賀市立博物館である。 たしか2階だったか3階だったかに、厳冬の12月に水戸藩の天狗党が奥美濃の蠅帽子峠を越えたことが書かれていて、どんな峠か興味を持っていた。 そして、いつか行ってみたいものだと思っていた。 |
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敦賀市の市内には水戸天狗党の墓地があった。 | |
家老の武田耕雲齋以下多数の者がここ敦賀の地で処刑されたことが書かれていた。 | |
茨城県からの多数の記念樹があった。 現在、敦賀市と水戸市は姉妹都市として交流しているそうだ。 |
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天狗党については、西山秀夫著「ひと味違う名古屋からの山旅」P142〜に紹介されている。 また、高木泰夫著「改訂 奥美濃【ヤブ山登山のすすめ】」P96〜にも紹介されている。 大垣山岳協会編「美濃の山〔第2巻〕」P96〜にもある。 インターネットでも詳細なHPがあった。 別のHPにも詳細な解説があった。 |
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